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生命(いのち)を見つめるフォト&エッセイコンテスト

エッセー部門

第2回入賞作品 −厚生労働大臣賞

「恩返しと恩送りの決意」

門脇 利枝(40)広島県

 28歳の時、私は介護離職した。

 当時の私は東京で働いていた。両親は東京から父の実家のある広島に移り住んでおり、80代半ばの祖父母と同居していた。

 祖父は心臓病で入退院を繰り返しており、祖母はうつ状態だった。母も慣れない環境のせいか持病が悪化し、父も皆の面倒を見るのに疲れていた。そんな状況にあることを、私は正月休みに家族の元を訪れるまで全く知らなかった。すぐに広島に来る決意をした。

 友人や同僚は私の将来を心配してくれたが、私は人生の選択を誤って後悔したくなかった。

 母が発病した時、生命のもろさを痛感した。当たり前だと思っていた日常が何の前触れもなく崩れ去ることもある。将来のことより目の前にある問題を解決しなくては、と思った。

 私が加わったことで、父の負担は減り、母も気を遣わず休めるようになり、祖父母も若い者がいれば安心だと言って、状況は落ち着いてきたかのように思えた。

 そんな矢先、父が交通事故に遭った。その結果、左足を切断し、脳に障害を負った。それが高次脳機能障害だとわかったのは、退院後のことだった。当時は事故によるショックが原因で情緒不安定なのだろうと判断された。

 病名が付いていないことで、父のおかしな言動はなかなか周囲の理解を得られず、誰彼構わず怒鳴りつける父から目が離せなかった。朝から晩まで付き添っていても、買い物に出た際や、帰宅後の夜中に、「手が付けられない。」と呼び出されることも何度かあった。

 看護師の皆さんは私に同情的で、いつも父のことを話す時は言いにくそうだった。しかし、他の患者の方々の迷惑になるということで、最終的には強制退院の話が出てしまった。

 私は次第に追い詰められていった。病院では父に暴言を吐かれ、周囲に頭を下げて回り、疲れて家に帰れば、体調の優れない母と、認知症の症状が出始めた祖父、鬱状態の祖母がいた。親戚からは私だけが頼りなのだからしっかり面倒を見るように言われ、気の休まる時が無かった。しかし、気が張っていたせいか、どんなに息苦しくても涙は出なかった。

 誰に感謝されるわけでも、褒められるわけでもない。そんな毎日の中で、たとえば友人の昇進、結婚、出産の報告を聞いた時や、就職情報誌で年齢制限が35歳までの会社が多いと知った時などは、自分の将来を不安に感じ、人生の選択を誤ってしまったかもしれないと思うことがあった。

 そんなある日、父が若い看護師さんに迷惑をかけたと聞き、いつものように謝罪に行った時のことだった。頭を下げる私の手を、看護師長さんがそっと握った。驚いた私は看護師長さんの顔を見た。その目には涙がにじんでいた。看護師長さんは私をじっと見つめて、「あなたは逃げなかったのよ。」と言った。

 咄嗟とっさに何のことかわからず、黙っていた私に、看護師長さんは続けて「あなたは逃げようと思えば逃げられたかもしれない。それなのに家族のために戻ってきた。あなたは逃げなかったのよ。」と言い、私の手を強く握りしめた。私は言葉が出なかった。

 「私はあなたを尊敬する。」。最後にそう言われた瞬間、思わず涙がこぼれた。あふれ出た涙は止まらず、私は人目もはばからずに泣いてしまった。

 うれしかった。離職してから5年、初めて自分のしてきたことを認めてもらえた気がした。自分の選択が間違いではなかったと言ってもらえたようで、本当に嬉しかった。

 状況が変わったわけではないが、思いきり泣いたお陰で、私は吹っ切れたような気持ちになった。その後も看護師長さんは私を気にかけてくれ、すれ違いざまに目配せしてくれたり、背中をさすってくれたりした。

 退院後しばらくして、父は高次脳機能障害専門の病院に移ることになった。母のこと、祖父母のこと、そして父の事故の裁判のことなど、相変わらず忙しい日々が続き、つらくなる時もあったが、看護師長さんの言葉と手のぬくもりの記憶が、私を支え続けてくれた。

 広島に来てから11年がち、来年、私は40歳になる。やっと色々なことが落ち着いて、自分の人生を考えられる余裕ができた。思っていた以上に時間はかかったが、精一杯の力を尽くし、大変だった時期を乗り越えてきた。今の私には、その自負心がある。

 私が自分自身を認められるようになったのは、あの時、看護師長さんが私を認めてくれたからだ。誰かに認めてもらえることが、こんなに嬉しく、こんなに心を強くしてくれるのだということを、私は初めて知った。

 これから私は再び社会に出る。不安がないわけではないが、これまでの経験を人のために役立てていきたいと思っている。あの時の看護師長さんのように、私も頑張っている人の心に寄り添える生き方をしたい。

 それが看護師長さんへの恩返しであり、また、恩送りになると信じている。

(敬称略・年齢、学年などは2019年2月16日時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

過去の作品
  1. 2018年 第1回

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