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思い出の展覧会
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毛利武士郎展
沈黙続けた頑固な彫刻家
柳原正樹 富山県水墨美術館副館長
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毛利武士郎展の会場風景

 学芸員となってそろそろ30年、いったい幾つの展覧会にかかわってきたのか。

 すでに記憶に遠いものの方が多くなってしまったが、そんな中、一人の彫刻家との出会いは、私の美術に対する考え方さえ変えてしまうような出来事であった。

 彫刻家の名は毛利武士郎、大正生まれの筋金入りの頑固者であった。

 昭和57年の秋、日本の現代彫刻の展覧会を企画するために、作家調査を行っていたおり、東野芳明氏から毛利を訪ねてみればと助言された。当時私は、この作家は亡くなったものと思いこんでおり、当然、調査対象には入れていなかった。

 さっそく、杉並区の久我山のアトリエに出向き、本人と作品を目の当たりにする。若輩者は即座に出品のお願いをしたのだが、あっけなく断られたのである。

 あきらめきれなかった私は、その後なんどか無理矢理にアトリエを訪ねるうちに、出されるものがお茶から酒へと変わり、出品の内諾を得たのである。それは、毛利の20年ぶりの作品発表となった。

 毛利武士郎は、昭和29年の第6回読売アンデパンダン展に「シーラカンス」を出品して、彫刻界の注目を集めた。以後、第5回サンパウロ・ビエンナーレ展、第1回宇部市野外彫刻展に出品するなど、国内外で活躍した毛利は、昭和38年の世界近代彫刻シンポジウムに参加した後、彫刻界から遠ざかり、沈黙したのである。

 それは、わずらわしい美術界に存在することの疑問と、その中で一人歩きする自身の作品に深い矛盾を感じたからにほかならなかった。

 沈黙の時は長く続いた。だが毛利はその間も制作の手を休めることはなかったのである。そして私は、その沈黙期に制作した作品をお借りし、展覧会に出品したのだった。

 それから9年後の平成4年、毛利は東京を離れ黒部市に移住した。私の自宅から車で10分ほどのところにアトリエを構えたのである。そして、コンピュータ内蔵の工作機によって、ミクロン単位で鋼鉄を刻むという新たなる制作を開始したのだった。

 その作品に接した私は、この作家の個展を開催したいと強く思うようになっていた。学芸員のスケベ心、あるいは習性とでも言うのだろうか。彫刻家にそのことを伝えると、やはり断られてしまった。

 またしても、あきらめきれなかった私は、平成11年5月、「毛利武士郎展」の開催へとこぎ着ける。20世紀も終わりを告げようとするころであった。

 開会式への出席さえ拒んだ毛利は、旧友の針生一郎氏と中原佑介氏が来訪したときだけ、会場に足を運んだ。この彫刻家は美術界に媚びることもなく、時代の変動に翻弄されることもない。ただ自身の追求する造形の形態を問いつづけた。そんな彫刻家の展覧会が忘れられないものとなっている。

 まるで時を惜しむかのように制作に没頭した毛利は、平成16年夏、帰らぬ人となった。主人をなくしたアトリエには未完の鋼鉄の塊が、鈍い光を放っている。そして私は、アトリエ周りの、夏の草刈り、冬の屋根雪おろしをつづけている。

※会期:1999年5月15日〜6月27日 富山県立近代美術館

美連協ニュース96号(2007年11月)から転載(※役職は掲載時)



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