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思い出の展覧会
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植木茂展
出張調査の大阪で強烈な印象
田中晴久 山梨県立美術館学芸第一課長
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調査当時の植木家のアトリエ(写真提供:下関市立美術館)

 1985年(昭和60年)8月中旬、大阪・梅田のビジネスホテルに泊まりながら、豊中市にある植木家に通い始めて数日が過ぎていた。住居から数メートル離れた別棟の1階のアトリエはある程度整理されていたが、その2階にある書斎は未整理のままだった。スケッチや本人が執筆した文章、植木の作品に関した批評文などが載った雑誌類のほかに、彫刻や建築、デザインの書籍や、雑誌などが雑然と机の上に積まれていた。

 その日も夏の酷暑が続き、汗をかきながら植木茂のアトリエで資料整理と調査をしていた。昼食は文子未亡人の手作りをごちそうになり、思い出話などのメモを取ったり、必要なものを書き写したりしているといつの間にか夜になっていた。ホテルに戻り、テレビのスイッチを入れると、夜10時をだいぶ回っているのにNHKでニュースが続いていた。羽田発の日航ジャンボ機が墜落したらしいとの報道であった。次々と乗客名簿の名が映し出される。思わず知人の名前はないか目で迫ってしまう。ニュースは終夜やっていた。いつの間にか眠ってしまったのだろう。朝、気がつくとテレビが付けたままになっていた。現場の映像を見たのは、植木家でのその日の調査を終え、ホテルに帰った夜であった。植木の調査は1週間ほど続いたが、連日ニュースはその事故が中心となっていた。これが後に日航123便御巣鷹山墜落事故とよばれ、生存わずか4名、520人の死亡者を出した日本最大の航空機事故であった。

 植木茂は中国からの復員後は文子夫人の故郷であった下関に5年ほど住み、その後は大阪に居を定めていた。そのため、聞き取り調査や作品調査などは大阪が中心となり、1985年の秋は月1回くらいの割合で大阪出張が続いた。大阪は阪神フィーバーで毎日盛り上がっていた。御巣鷹山での事故で球団社長の中埜氏を亡くした阪神タイガースは、その後快進撃を続け、三冠王となったバースや掛布、岡田らの活躍で21年ぶりに日本一に輝き、道頓堀に飛び込む者もでた。その後はPL学園の桑田と清原のドラフト会議が話題であった。

 翌年も調査は続き、北海道へ飛んだ。植木は札幌出身のため、北海道立近代美術館に関係資料がかなりまとめられてあり、佐藤友哉氏や正木基氏(現・目黒区美術館)の好意で複写させてもらった。また植木は自由美術家協会、モダンアート協会、現代美術懇談会(ゲンビ)でも主要なメンバーだったため、それらの調査では和歌山県立近代美術館の三木哲夫氏(現・国立新美術館)らにも協力を頂いた。更には作家の新宮晋氏や植木茂の妻・文子氏、長女の小林未魚子氏など20名以上の方々にお話を伺う機会を得た。

 1987年2月21日〜3月29日に下関市立美術館で開催された展覧会は、木彫102点、家具10点、金属48点など233点を展示した。学芸員にとっては、実際の展覧会が始まった時には既に8〜9割の業務が済んでいるわけで、調査、準備こそが楽しくもやっかいな仕事なのである。この展覧会でも、開催中の記憶はほとんどない。植木茂展では、調査を続けていた時期、特に1985年の出来事、日航機事故、タイガース優勝が未だに強く結びついて記憶に残っているのである。

美連協ニュース95号(2007年8月)から転載(※役職は掲載時)



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