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思い出の展覧会
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「高島野十郎展」
未知の作品を見出す醍醐味
西本匡伸 福岡県立美術館学芸課長

 昔の調査ノートの頁を繰ってみると、Aさん宅を訪問したのは、1986年7月12日だった。

 その日は朝から千葉県柏市の2軒の個人所蔵家を訪ねた。作品を調査し、展覧会への出品についても首尾良く内諾をもらうこともできた。

 予定どおり調査を終えて、時計を見た。まだ夕刻には時間がある。2日前に東京の調査で入手した情報が、急に気になり始めた。

 「Aさんが、烏瓜と月のいい絵を持っていますよ。」

 ここから遠くはない。教えてもらった番号を公衆電話からダイヤルした。

 この前年に私は学芸員になったばかりだった。上司から、高島野十郎(1890ー1975)という福岡県出身の洋画家を回顧する自主企画展を担当するよう命じられた。地元ですら全く無名の画家である。東京帝大を首席で卒業しながら画家に転身し、精緻な写実を生涯追求した異色の作家だった。晩年は柏市で隠棲するような生活を送っていた。作品もほとんど知られず、ひとつひとつ在処を探す旅が始まったのだった。

 さて、Aさんは、突然の訪問者である私を部屋に招き入れ、からすうりと月の2点の作品を並べてくれた。まさに名品だった。すぐさま展覧会への出品をお願いしたところ、予想もしなかった言葉が返ってきた。

 「それは、ダメです。毎日私はこの絵を眺めることを楽しみにしているのです。福岡はあまりにも遠い。」

 還暦を越えたくらいに見えるAさんは、この絵に出会って初めて人生の喜びというものを知った、というようなことすら口にした。それを受けて話すべき言葉を私は知らなかった。

 Aさん宅を辞しての帰り道、ふと気づいた。何を勘違いしていたのか。その日に限らず出品交渉が順調だったのは、自分の交渉が巧かったからではない。出品を内諾してくれた人たちは一様に、「高島さんのためなら」と言っていたではないか。高島野十郎という人間やその作品への、所蔵家それぞれの愛着こそが事を進めたのだ。展覧会を支えている大きな原点を、Aさんの言葉は、私の胸にはっきりと自覚させた。

 美術館に戻って上司に報告した。上司はAさんに電話を入れて、じっくりと話を聞いていた。作品を貸してくれそうだという。私は便箋に文字を刻むようにして、出品依頼状に同封する手紙を書いた。

 Aさんの作品はいずれも、展覧会の壁を飾ることとなった。からすうりは、図録の表紙ともなった。

 「高島野十郎展」は、未知の作品を見つけ出すという醍醐味を教えてくれた。そして、作品の背後に連なるさまざまな人の想いの重さも身をもって知った。

 展覧会が終わり、Aさん宅に作品の返却にうかがった。梱包が解かれて、Aさんの手に作品が渡ったとき、それまで無表情であったAさんは破顔一笑した。展覧会が無事に終わったことを実感した瞬間だった。

美連協ニュース91号(2006年8月)から転載 (※役職は掲載時)



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