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思い出の展覧会
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山口正城・健智展
新明英仁 北海道立旭川美術館副館長
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「山口正城・健智展」展覧会ポスター

 恥を曝すようだが、自分が最初に担当した展覧会について書こう。これは美術館に勤めて3〜4年そこそこで初めて担当した地元関連作家の自主企画展である。

 隔世の感ある30年前である。原稿は手書き、写植で棒打ちした原稿を切り貼りして、担当学芸員が図録の割り付け(デザインとは言えない)をした時代の話である。広報印刷物もまた然り。学芸員も皆若く、経験者は不足気味だった。

 ところで、タイトルの作家をご存知だろうか。二人とも旭川生まれである。山口正城(1903〜59)は自由美術展の会員として、抽象画の先達として、また優れたデザイナー・教員として活動したから、それなりに知られているかもしれない。しかし、年の離れた異父弟の健智(1921〜82)は、ほとんど知られていない。それでも当時の地元旭川では、フランスに留学して古典的技法を学んだ作家として知られていた。私が担当した作家は、健智で、兄正城のほうは少し先輩の学芸員N氏が担当した(ちなみに道立旭川美術館の学芸員定数は3人、年間8回の巡回展、自主企画展、所蔵品展を開催していた)。

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「山口正城・健智展」展示風景

 さて、自主企画展ならではのさまざまな仕事の多くが初体験であった。実力経験ともに不足。準備期間はほぼ1年。作品は北海道内から東北、関東、東海、関西、九州方面まで全国各地に散在していたので、当面の仕事は山のようにあった。画廊、所蔵家、遺族、美術館との折衝や交流、出品交渉、調査出張、保険、輸送計画、見積もり合わせ、作品の点検・借用・返却、広報印刷物、図録の執筆・編集・校正、展示計画、開会式……巡回展など他の仕事もあったので目先のことをこなすだけで精一杯。寡作な作家であったから作品の数を集めるだけでも汲々とし、展覧会のヴィジョンなどそっちのけの後付けであった。

 この準備の最中、基本的な礼儀作法もろくに知らなかった生意気な若者が犯した数々の失敗を列挙するとこの紙面では足りないだろう。だが、私は必死であった。「学芸員の恥は美術館の恥だ!」「これが学芸員の仕事か!」とスパルタ教育された私の心臓は毎日停止するかと思うほど緊張していた。そして会期終了後、作品の返却のため関東・東海方面に8泊9日の出張をし、毎朝汐留の日通倉庫から美専車で出撃(!)した。最終日、すべての返却を終えてホテルのベッドに横になったとたん、夕食も取らずに十数時間眠りこけた。

 そう、私は展覧会を企画したのではなく、次から次へとやって来る仕事にコキ使われていたわけである。それでも不思議と展覧会はオープンし終了した。多くの失敗と非礼を許し支えていただいた寛容な方々に心から感謝しなくてはならない。

 こんな体験でも複合すると織物のようになる。ジット我慢すれば、自分の研究や思考を企画に生かす機会はやってくる。その後の30年間で、まともな企画展を自発的に発想し開催したとすれば、上記の体験も無駄ではなかったことになる。果たして本当に実現できたのか、これは自問自答ではいささか心許ない。もっとも、引退間際の私が誇り高き後輩の学芸員たちに遺すとすれば、このような「恥も外聞も無い」ことしかないのは確かである。

会期:1984年10月7日〜11月18日  北海道立旭川美術館

美連協ニュース127号(2015年8月号)から転載(※役職は掲載時)



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