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思い出の展覧会
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荒野のグラフィズム:粟津潔展
日本海の波と夕日を背に山下洋輔の“炎上パフォーマンス”
不動美里 金沢21世紀美術館学芸課長
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山下洋輔《ピアノ炎上2008》
「荒野のグラフィズム:粟津潔展」関連企画2008年3月8日石川県羽咋郡志賀町(能登リゾートエリア増穂浦)
撮影:中道淳/ナカサアンドパートナーズ

 粟津潔(1929−2009年)の長男で粟津デザイン室代表の粟津ケン氏より金沢21世紀美術館に対して、アトリエにある全作品の寄贈受け入れについての打診があったのは、2006年5月末のことである。翌6月には館を挙げて受贈のための調査を開始した。絵画、デッサン、ポスター、版画、装丁、写真、映像、パフォーマンス、映画・演劇の美術、建築・環境デザイン等、ジャンルを横断して駆け抜けた粟津の夥しい作品資料群が続々と湧き出してくる様を目の当たりにしながら、私はアトリエで生まれた個々の図像がひとつの形式に留まることなく絶えず変化してゆく動的な存在であることに気づいた。「すべては荒野だった。グラフィックという言葉も存在していなかった。」という粟津の言葉も、調査が進むにつれて私の中で耕され、焦土と化した戦後日本の社会状況のみならず、粟津が立つ根源的な表現の大地を象徴する言葉として響くようになった。「荒野」とは粟津が幼年期に抱えた自己存在の深淵であり、記述されることのない無名の人々の歴史であり、人の身体に刻まれた原初の記憶であり、美術の始源に通じる暗闇であり、新たな混沌の只中にある現代の世界でもあると。

 「荒野のグラフィズム:粟津潔展」は当館が所蔵する2788件の作品資料のうち1750点を一挙に展観し、その豊穣な響きを不特定多数の人々に開き、多様な発見と創造が生起する場とする企てであった。大きな展示室のひとつを「ワークショップ・ルーム」と位置づけ、粟津作品と関わりの深い人々を招いてライブ、パフォーマンス、ワークショップ等、会期中28件47回展開した。まさに大勢の人々の思い出によって支えられたこの展覧会を通じて、私は「思い出」とは今を生きる「生きもの」であることを学んだように思う。

 粟津の映像作品としてとりわけよく知られる《ピアノ炎上》は、1973年、燃えるピアノの音を録音するというレコード制作を発端に生まれた。この企画に参画した粟津は事の一部始終を自主的に撮影し、実験映像として翌74年に発表。たまたま録音のための演奏を引き受けた山下洋輔は、以後35年間、映像の中で「燃えるピアノを弾くピアニスト」として際限なく再生されることとなった。そんな山下は、粟津の映像インスタレーションのなかで即興ライブ「ピアノ再炎上:粟津潔の映像作品とともに」を行った。展示室内のライブで過去の自分との再会と共演を果たした山下はさらに番外パフォーマンスの決行を宣言した。廃棄される1台の古いピアノへの葬送のレクイエムとして、また《ピアノ炎上》とその作者粟津潔、そして当時の時代精神へのオマージュという意味を含めつつ、新たに自らのパフォーマンスとして《ピアノ炎上2008》に挑んだ。

 《ピアノ炎上2008》は、2008年3月8日午後5時、能登半島増穂浦で行われた。様々な危倶や異論の声に対する気の遠くなるような説得と交渉の末、ようやく過激なイベントの挙行を温かく迎えてくれる人と場所に巡り合えたのである。そこは粟津が一歳で死に別れた父の生まれ故郷、富来町(現在は志賀町に合併)の海岸であった。この町を慕い粟津がデザインした日本海と夕陽をモチーフとしたシンボルマークは今も健在だ。志賀町消防団富来分団から提供された防火服に身を包んだ山下がグランドピアノに向き合うと、ピアノは清んだ音色を奏で始めた。演奏の開始と同時に点火され、浜風に煽られた炎と煙はパチパチ音を立てて瞬く間にピアニストに迫った。88鍵の鍵盤全てに触れて極限を弾き終えた山下は静かに立って一礼した後、集まった450人余りの群衆とともに、日本海の波と夕陽を背にして燃え続けるピアノを日が暮れるまで見守った。

※会期:
2007年11月23日〜2008年3月20日 金沢21世紀美術館

美連協ニュース111号(2011年8月号)から転載(※役職は掲載時)



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