読売新聞へようこそ■イベント
美術館連絡協議会 美連協について English 美術館連絡協議会
-
リレーエッセイ
バックナンバー
岸田吟香からのはじまり
鍵岡正謹 岡山県立美術館長
picture
岸田劉生 ≪生家の図(楽善堂)≫ 茨城県近代美術館蔵

 岸田吟香の生誕地である岡山県旭町へ行ってきた。山間の小さな町は合併で美咲町と名を変えていた。町立美術館の二階に吟香記念室が併設されている。

 吟香といえば岸田劉生の父親として知られるが、「幕末から明治にかけてつねに文明開化の第一線を走り続けた企業精神旺盛の快男児」(芳賀徹)である。今で言うところの起業家の先駆け。吟香の仕事はじめは、幕末横浜でヘボンの助手をつとめて和英辞典を『和英語材集成』と名づけ刊行するに始まる。

 新聞界では先駆者で、幕末にわが国最初の邦字新聞『海外新聞』をジョセフ・ヒコと刊行、ついで『もしほ草』を創刊した。明治に入ると『東京日日新聞』の記者となって台湾戦争に従軍し、従軍記者の草分けとなる。

 吟香でよく知られるのは、ヘボン直伝の水目薬を調剤し(精綺水)として販売し、大成功を収めて銀座に楽善堂薬舗を営んだ。(精綺水)は販路を中国にも拡大させて、中国からは書籍や文房四宝を輸入し楽善堂で販売している。

 吟香の中国への思いは強く、中国の詳細な地図を版行し、東亜同文会、同仁会の創設にかかわり、日中親善に尽くしている。(精綺水)のかかわりからは社会慈善団体楽善会を組織し、日本初の訓盲院(盲唖学校)を設立、社会事業を行った。他の事業には、東京横浜間の定期航路の経営、氷室商会の設立、越後石油の掘削などがある。

 旭町の吟香記念室では、多岐な仕事を実物の辞書や新聞で展示。中には台湾戦争に従軍中の巨貫吟香が、台湾人に背負われ渓流を渡るに耐えなかったエピソードを、落合芳幾が錦絵にした新聞もおもしろく(話題の遊就館が所蔵する下岡蓮杖の大パノラマ画「台湾戦争図」に吟香が描かれている)、また(精綺水)の看板も展示されている。

 劉生は昭和2年『東京日日新聞』に連載した「新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)」のカット絵に、バルコニーのあるハイカラな生家、銀座楽善堂を大きな(精綺水)の看板を掛けて描く。山深い町でこの本物の看板と出会い、明治の銀座を思ったことである。

 10代の吟香は、旭町から津山に出て、洋学に触れ、旅立つ。現在の津山市に行けば、津山郷土博物館で津山藩を知り、津山洋学資料館で幕末の洋学を詳細に知る。前者は戦前の議事堂を利用した洋館であり、後者は釘を1本も使わず建てられた豪壮な仏閣風の銀行建築を活用し、目をみはるばかり。

 博物館や美術館は、ときに建築にビックリさせられ、知の喜びが本物から啓発される、ナント楽しい場所だろう。岡山県は博物館協議会を組織していて、現在73館が加盟、僕は20館余りを見ている。すべての館を見てみたい。

 ところで、吟香は美術界にも大いに関係が深い。東京日日新聞記者の吟香は、明治10年開催の第1回内国勧業博覧会について「博覧会の記」として30回近く連載している。平易で流麗な文体で詳細に紹介、最初の美術評論となっている。

 記事の中に、高橋由一が出品した《武具図》を油絵の歴史を述べながら紹介しているが、吟香は幕末、横浜で由一と出会い、文明開化の洋画家を支援し続けたし、石版工房玄々堂の顧問格であった。

 洋画家で玄々堂にもかかわる2人、山本芳翠が明治11年パリ万博事務局雇で渡仏するために尽力し、五姓田義松の明治13年の渡仏には、その費用を援助していた。本邦初、美術留学生のスポンサーである。

 吟香の社会事業や美術スポンサーシップの先駆的な精神は、倉敷の大原孫三郎の社会事業や、日本初の近代美術館となる大原美術館の昭和5年創設で大展開を見せた。現在も更に活動を拡げている大原美術館は、美術における「公(おおやけ)」の精神を存分に発揮している。私立美術館の先駆的で活発な「公」の活動に、公立と呼ばれる美術館は真に「公」たる使命を痛感しているところである。

美連協ニュース92号(2006年11月)から転載 (※役職は掲載時)



-
美術館連絡協議会 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1 読売新聞東京本社事業局 TEL.03-3216-8664 FAX.03-3216-8978