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イタリアの風土が生んだ技法
田口安男 いわき市立美術館長
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ヴェロネーゼの壁画

 ピエロ・デラ・フランチェスカの≪笞打ち≫の素肌に触れたことがある。

 30代の終わり、2年間ローマに住んだ。滞在許可証(ソッジョルノ)を取る必要もあって、ローマ中央修復研究所の聴講生になった。

 修復過程一年生たちの金地背景テンペラ画の下地づくりに加わった。兎膠溶液と石膏を混ぜて塗り重ね、金属板を突き立てて、滑らかな面に削り上げる・・・・。上の階では、画集で知っているキャンバス地の油彩画やテンペラ板画の修復が進んでいた。

 ラファエロ初期の代表作≪キリストの埋葬≫があった。≪笞打ち≫も古いワニスを除去した状態で作業台に横たわっている。額縁は外され、下地の厚みは2ミリほど、とわかる。一年生と実習している下地づくりと同じだなと合点する。用もないのにボンジョルノを言って顔を出すうちに修復スタッフと親しくなり、さわっていいか?とぶしつけなイタリア語を口にすると、どうぞと言ってくれた。

 薬指で≪笞打ち≫の滑らかな画面、素肌に触れる。至近距離に見る、顔などの丸みの表情は、膨らみなど感じられぬ平ったい表現だ。これが「絵画の神聖な平面性」というものかと感じ入った。

 絵描き仲間は、ルネッサンス期の名作が修復後きれいになり、ダメになったと叫んだりする。だが、これはケースバイケースだ。油彩画の場合は、古いワニスを除去する溶剤が油彩の表層を溶かす危険が大きい。その点、テンペラやフレスコは、画面の材質が洗浄液の性質と離れているから、溶かされる危険はすくない。

 先年、ローマ、システィナ礼拝堂の天井画が長年の汚れを洗い落として明るくなって、衣の色変わり、その多彩な表現が注目された。ミケランジェロが色彩画家として見直されたと話題になった。

 この衣服の色変わり表現は、フレスコ壁画やテンペラ祭壇画では、よく見る技法で、カンジャンテ(玉虫色の色変わり彩色)と呼ばれるものだ。フレスコの大壁画などでは、群像の衣服が同じ色で揃うと退屈になるから、一人々々の衣服を、この色変わりに塗り分けておく。遠くから眺めると、玉虫色のような色彩の変幻、光学的な視覚効果が立ちあらわれる。

 カンジャンテはミケランジェロに特有の豊かな彩色技法ではない。イタリアの風土、イタリア人の色彩感覚が生んだものだろう。

 ローマで車の免許を取って走り回った。ヴェネチア近郊のマゼールにあるヴェロネーゼの壁画は、ダマシ絵で有名だが、この壁画にもカンジャンテの多彩な衣服の表現がある。汚れを洗い落としたあとの壁画は鮮烈だった。あの頃、ローマのシスティナの天井画は、まだ、洗浄以前で、その古びた落ち着いた色調に親しんでいた私には衝撃だった。

 このヴェロネーゼの壁画には風景画の壁画もある。雲の表現は、日本の多色木版画のような平板な塗りで、色変わりの表現だ。フランス印象派の色が、すでに、ここにあるとびっくりした。イタリア人の絵描きに話を持ち出したら、ソンナコタ、アッタリマエという顔をされた。

美連協ニュース91号(2006年8月)から転載 (※役職は掲載時)



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