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美術館にとって一番大切な核
山梨俊夫 神県立近代美術館長

 今年6月に神奈川県立近代美術館の葉山館で開催されるアルベルト・ジャコメッティ展の準備が佳境に入っている。同展は、兵庫県立美術館、川村記念美術館に巡回していくので、三館の担当学芸員がいま作業に追われている。筆者自身も図録に序文を書く必要から、いくつもの資料を読んでいるが、なかでも刺激的で、読むこと自体が面白く思わず知らず没頭してしまう資料がある。

 この展覧会は、1956年から61年にかけて、日数を数えると延べ2百数十日に亘り、ジャコメッティのモデルを務め、彼と深く理解しあった哲学者矢内原伊作にひとつの照明を当てることを狙いとする。矢内原は、モデルをしていたあいだ、ポーズが終わると毎日メモふうの日記をつけていた。この日記が面白い。いや、面白いというのとは少し違う。「見える通り」に表わすという単一の目標に向けて、時間の全てを捧げるジャコメッティと矢内原とのやり取り、とくにジャコメッティが制作中に吐く言葉は、作家の集中と緊張を生々しく伝えて、読む側の思考に深く突き刺さる。作品の生まれる最も熱い現場に、束の間立ち会えたような気さえする。あるときは苦闘の果てに、あるときは喜びとともに、作家はそうした現場で姿をあらわした作品に、自らが築き上げた物の見方、つまり世界観を豊かにこめる。われわれ、作品を見る者、享受する者は、しばしば直観的にその深さに打たれ、ときには読み解きがたい困難さを突きつけられて興奮の入り混じった戸惑いを覚える。そのとき、われわれは作家の熱に感染しているということだろう。こういう熱を暖かいままにどう伝えるか、展覧会は難しい。

 展覧会に経済効率が求められたり、動員数の増加を至上課題としたり、美術館を巡る状況は、最近ずいぶん歪みも出てきている。時世を見極め、適切な対応をしていくことも重要には違いない。しかし、気を張って対処しないことには、いつか知らぬまに後退している自分たちに気づいて愕然とすることにもなりかねない。美術館にとっていちばん大切な核は何なのだろうかと思う。展覧会、収集、普及活動、それらを支える研究、そこに携わる人間たちの美術への感応が欠かせない。美術への感応などというと、曖昧で一般的に過ぎるが、つまりは作家への共感、作品に対する感動に基づいた読み込みの深さ、そこを源とする発想に拠らなければ、活動の根は浅く、いとも容易に別の論理に足元をさらわれてしまうだろう。自分たちの納得できないものをもって、どうして他者に納得してもらえるだろうか。

 ジャコメッティの凄まじい集中とその持続、そしてその果てに生まれる彼の彫刻や絵画は、感応すればするほど圧倒的な強さと深さをもって迫ってくる。感応の場をどうつくればいいか、そのことに展覧会の難しさも面白さも係っている。感応の伝達は、できるだけ多くの人に届けばいいとは思うが、反面、数を目指せば薄められる。問題は濃度である。

 いまはそういう時代ではない。美術館を取り巻く情勢にもっと現実的に処さなければ生き残れない、という声も聞こえそうだ。しかし、いちばん大切なことにこだわらなければこの領域で生きている意味もない。

美連協ニュース90号(2006年5月)から転載 (※役職は掲載時)



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