読売新聞へようこそ■イベント
美術館連絡協議会 美連協について English 美術館連絡協議会
-
リレーエッセイ
バックナンバー
「玉を懐いて罪あり」の感も
島田紀夫 山梨県立美術館
picture
ミレー≪種をまく人≫(山梨県立美術館蔵)

 山梨県立美術館が置県百年を記念して開館したのは昭和五十三(一九七八)年十一月。それ以前にすでに開設されていた公立美術館はそれほど多くはなかった。山梨県立美術館は開館時にミレーの《種をまく人》と《夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い》を取得して出発したから、ミレーとバルビゾン派の美術館としてすぐに世間に知られるようになる。その後もミレーとバルビゾン派画家の作品収集を重ね、企画展もそれに関連したものが多い。

 私が赴任して二年目の平成十四(二〇〇二)年秋に、二十五周年記念展として「ボストンと山梨のミレー展」を開くことができたのは、名古屋ボストン美術館が平成十四年三月から九月まで「ミレー展」を実施し、その終了後にミレー作品を山梨県立美術館に短期間だけ貸してもよいという申し出があったからである。その見返りとして名古屋ボストン美術館の「ミレー展」の開始時期に山梨県立美術館の《種をまく人》を貸し出すことが条件だった。昭和六十(一九八五)年の「ボストン美術館蔵 ミレー展」の折にもボストンと山梨の二点の《種をまく人》が並べて展示されたことがあるから、これは十七年目の再会だった。

 こうした企画展を二度も開くことができたのもミレーのおかげである。二十五周年展の図録で、創立当時の知事であった田辺国男氏が刊行された回想記『ミレーと私』(一九八五)などを参照して、私は山梨県立美術館がミレーの《種をまく人》を購入した経緯を整理してみた。以下はその概要。

 当時の美術館顧問(のちの初代館長)の千澤氏に田辺氏が収集の方針を相談すると、千澤氏は「バルビゾン派の絵でゆくのがよいでしょう」ときっぱりいわれたこと、飯田画廊がニューヨークのオークションに出向きミレーの《種をまく人》が出品されることを事前に察知したこと、千澤氏がそのことを飯田社長から聞き出したこと、千澤氏の提案を田辺知事が了承したこと、田辺知事のミレー作品購入の決断を議会や事務当局が理解し協力したこと、山梨県企業局の電気事業固定資産勘定の中の「事業外固定資産の備品」としてこの作品を購入することを当時の通産省が特別に許可したことなど・・・・・・。

 収集方針の決定の経緯は分かったが、千澤氏は人も知る日本近世美術史研究の泰斗。なぜ千澤氏はそうした提案をしたのだろう。私のこの小さな(しかし私にとってはかなり重要な)疑問は、いまから一年ほど前に氷解することになった。

 千澤氏は上野の国立博物館に勤務していたころから、同じ上野にある国立西洋美術館の学芸員をされていた高階秀爾氏と親しくしておられた。山梨県立美術館の顧問になった千澤氏が山梨県立美術館のコレクションの内容について高階氏に相談されたとき、高階氏は、ミレーやバルビゾン派の作品がふさわしいのではないか、と示唆されたという。このことを私は高階氏から直接お聞きすることができたのである。

 こうした多くの幸運に恵まれて山梨県立美術館はミレーとバルビゾン派の美術館として活動をつづけてきた。しかし、開館二十五周年記念の「ボストンと山梨のミレー展」を実現させるためには、予期せぬ障害をいくつか乗り越えなければならなかった。その年の暮れに館長が辞任され翌年には組織も大きく変わった名古屋ボストン美術館の当時の事情は知る由もなかったが、山梨の側でも県の行政組織の了解や美術館内部の意見の統一などで齟齬が生じた。

 ミレー作品の重要性は認識しつつ、山梨県の資産(県立美術館の単独の所蔵品ではない)としての作品の取り扱いについて、いくつかの異議が発せられたのである。その詳細をここでは述べないが、『春秋左氏伝』に引かれた周の諺を借りれば、「玉を懐いて罪あり」の感、無きにしも非ず。

 かつて鴎外はホフマンの奇譚『スキュデリイ嬢』を『玉を懐いて罪あり』の題名で訳出したことがある。原題のままでは意味が通じないと考えたのだろう。ミレーの農民画の解釈について同じような「事態」に遭遇して思案している私はそのことを書こうとしたのだが、すでに紙幅がつきてしまった。

美連協ニュース84号(2004年11月)から転載 (※役職は掲載時)



-
美術館連絡協議会 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1 読売新聞東京本社事業局 TEL.03-3216-8664 FAX.03-3216-8978