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“たそがれ”横浜のアイデンティティー
雪山行二 横浜美術館長
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横浜「みなとみらい」では一年中なんらかのイベントが行われ、各種の展覧会、博覧会が開かれている

 私はハマっ子(横浜っ子)ではない。横浜といえば、はるか昔「港の見える丘公園」でデートをしたような記憶もあるが、それ以降はたまに中華街に行ったり、職業がら横浜美術館に展覧会を見に行く程度で、私にとってとくになじみ深いまちというわけではなかった。

 昨年の四月、横浜美術館の館長に就任したとき、とにかくこのまちを知ることが肝要だと思った。そこで美術館から歩いて一〇分ほどの所に小さなマンションを借り、ここを拠点に、もっぱら自転車で横浜のまちを探索してきた。三渓園まで自転車で行ったことはないが、元町、中華街、大桟橋、伊勢佐木町、野毛の飲み屋街ならひとっ走りだ。古いジャズクラブに顔を出したり、小料理屋で年増の女将から横浜の変遷を聞くのもおもしろい。

 しかし、私がわずかながら知っている横浜は、この開港以来の「横浜村」と、横浜美術館のある若者向けの観光スポット「みなとみらい」にすぎない。現在の横浜市は三五〇万の人口を擁するわが国二番目のマンモス都市なのである。

 東京に近接する都市の生き方にはむずかしいものがある。横浜のような大都市にとっても、それは同じである。というよりも、大都市であるだけに問題も複雑だ。

 横浜は本来、江戸を守るための防波堤としてつくられたまちである。これは今日に至るまで本質的に変わっていないのかもしれない。開港後の横浜は貿易港と して大いに発展した。敗戦によって一転し、進駐軍のまちともなったが、西洋への窓口を自負する横浜は、これを逆手にとって、おしゃれで、先進的で、異国情緒のあるまちというイメージを全国に浸透させてきた。開港以来わずか百四十余年ながら、その特異な文化遺産を最大限に活用しているという点で、わが国では珍しく文化戦略をもった都市といえる。

 しかし問題は、肝腎の「横浜文化」とは何か、ということである。かつて横浜は絹取引によって繁栄し、原三渓のような芸術の大パトロンも出たが、それははるか昔の話である。外国のモノもヒトも文化もいまや横浜の港から入ってくるわけではない。中華街と外人墓地を除けば、横浜にあるものはほとんどすべて東京にもある。

 それに加えて、三五〇万の市民のうち半数以上は東京を向いて暮らしている。とくに横浜市北西部の「新住民」にとっては、「横浜村」や「みなとみらい」に来るよりも、東京の渋谷に出る方が早くて、安い。大道芸まつり、フランス映画祭、ジャズ・プロムナードなど、横浜では一年中休みなくイベントが打たれ、各種の見本市が開かれているが、これは観光都市横浜に人を集めるための手段であるとともに、希薄になった横浜のアイデンティティーを守るための必死の努力でもある。

 このような都市において美術館はどのような戦略をもつべきなのだろうか。横浜美術館は、コレクションの内容でも、企画展のテーマでも、「横浜」に固執してきた。幕末から明治のチャールズ・ワーグマン、高橋由一、五姓田義松、写真家フェリクス・ベアト。原三渓に庇護された下村観山、今村紫紅や院展系の画家たち。マクズ・ウェアの名で欧米で好評を博した陶芸家宮川香山。横浜に生まれ、パリとニューヨークで活躍した長谷川潔と岡田謙三。片岡球子、斎藤義重、國領經郎も横浜ゆかりの作家である。

 美術館の使命のひとつは、その地域の文化遺産とそれにかかわる情報を集積し、公開することによって、住民のあいだに共同体意識を生み出すことにある。とすれば、横浜美術館は開設以来わずか十四年とはいえ、この方向にむかって最大限に努力をしてきた。だが、この路線はそろそろ限界にきているように感じられる。

 「三日住めばハマっ子」ともいわれるが、それでも私は「新住民」であるのか、逆にすべての制約をとり払う方がむしろ「横浜らしさ」につながるのではないか、そのような気もするのである。

美連協ニュース80号(2003年11月)から転載 (※役職は掲載時)



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