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「アジア美術館」立ち上げの“原点”
安永幸一 福岡アジア美術館長
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キャンパス内での野外授業風景(1978年3月撮影)

 思いがけず懐かしい地名に出会った。

 先日、訪ねた兵庫県立美術館の「秋野不矩展」でのことである。

 『シャンティニケ一タン』インド、カルカッタの北東百三十キロ、汽車で二時間半、詩聖タゴールが自然との調和や、芸術と学問の融合を目指して創立した、ビシュワ=バラティ大学がある学園村である。この大学の芸術学部は著名な画家や彫刻家を多く輩出し、インド近代美術発祥の拠点でもある。日本の画家も一九〇三年の大観や春草以来、勝田蕉琴や荒井寛方などが深い関わりを持ってきた。

 秋野不矩さんが、このシャンティニケ一タンに日本画教師として初めて足を踏み入れたのは一九六二年、五十四歳の時だった。以後、彼女の後半生を代表する「インド・シリーズ」の名作が次々に誕生することになった。

 彼女の経歴の中で、特に私が感銘を受けたのは、この地に来ることになった経緯である。

 インドで日本画の先生を募集している、という話に、「私、行きます、と言ってしまった。英語もろくに出来ないし、インドのことを知らない自分がなぜインドと聞いて、待ちかまえていたように行く気になったのかは、われながら不思議であった」

 彼女の語る、後半生の思い出話は、人間の一生が、得てしてほんの些細な偶然やきっかけで決まってしまう、ということの示唆を我々に与えてくれた。感慨深い話である。

 私がシャンティニケ一タンを訪れてから、すでに二十五年が経つが、私もまた、この地との出会いに運命的なものを感ぜざるを得ない。わずか二泊三日の短い滞在ではあったが、昨日のことのようにすべての記憶が甦ってくる。数多くの旅の中で、最も印象深く、忘れ難い。私のアジアはここが始発駅だと言ってもいい。

 初めて乗ったリキシャ。唯一のホテルである素朴な大学のゲスト・ハウス、そこでの三度三度のカレーライス攻め。毎朝部屋の入口に置かれていた熱いモーニング・ティ。

 帽子が色褪せるほどの灼熱の太陽の下、口が利けなくなるような異常な喉の渇きに、たまらず道端の露店で買って飲んだ砂まじりのコーラには参った。

 木陰での野外授業はとても涼しそうだった。停電のためにローソクを灯して催した芸術学部教授たちとの夕食会。見上げれば圧倒されるほどの満天の星空、初めて見た南十字星。苛酷な自然の中でしか得られない感動だった。

 福岡市美術館開館記念展として、開館直前に決定した『アジア美術展』のための初めてのインド出張だった。「アジアに現代美術などあるのか」と馬鹿にされていた時代である。

 秋野不矩さん同様に、私もインドは未知の国で、英語も不得手だった。その上、抜糸した術後の傷を背中に負い、本当は気のりのしない出張だった。上司の「行ってこい」の有無を言わさぬ一喝に蹴っ飛ばされて出発したのだ。

 案の定、最初から最後までトラブル続きの悲惨な旅となった。そんな中で、シャンティニケ一タンの三日間が、この最悪の状況から私を救ってくれたのである。

 だが、今にして思えば、自ら望んで行ったわけでもなく、辛く厳しい旅であったが、私にとって、この旅は貴重な体験になり、財産となったことだけは確かである。アジアと初めて、真剣で切り結んだような旅の中に、新たな発見があり、使命感や連帯感も生まれて、進むべき方向がおぼろげながら見えてきた旅でもあったからである。

 以後、福岡市美術館におけるアジア近現代美術への取組みの中核を担い、やがて、福岡アジア美術館を立ち上げた。シャンティニケ一タンでの心に残る三日間が、私の人生の方向を定めたように思えてならない。

 秋野不矩さんと私のシャンティニケ一タン ――不思議な運命の共有を感じる昨今である。

美連協ニュース79号(2003年8月)から転載 (※役職は掲載時)



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