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「小さな世界」
―生まれてきただけで価値がある―
鷹山ひばり 青森県立美術館長
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鷹山宇一《小さな世界》1993年 油彩、カンヴァス 個人蔵 ©鷹山宇一記念美術館

 長い間、私には子どもがいなかった。東京中の病院を廻り不妊治療に通い続けていた私を見かねて「君の代で鷹山姓が終って何が悪い」と父は言ってくれた。

 父母の思いは痛いほど分っていたが、流れ去るばかりの時を送っていたのだ。

 そして、誰れしもが想像だにしていなかった―男子誕生―であった。

 家族皆が待ち望み、限りない祝福のなかで産まれてきた赤子であったが、とりわけ父の喜びは言葉で言い尽せないほどの大きなものだった。

 43歳で夢又、その夢であった母親になった私は、震える感動と共にその宝物を病院から父の元に届けた。

 父は思いがけず巡り会ったこの嫡孫をぐっと胸に抱きしめて大粒の涙を流しながら「長生きできたお陰で…。よく生まれてきた、本当によく生まれてきたね」と搾り出すように声を出し、何回も何回も頬ずりをした。隣にいた母も誰もが落つる涙を押さえるすべも忘れていた。

 84歳の老画家、鷹山宇一はこの決して言の葉で表せない奇跡を、さほど大きくない作品にして残していった。

 生命の源である「海」を主題に波際に遊ぶ小さな蟹を描き、波上にはその子蟹を見守るかのように蝶を飛ばし、遙か水平線には父の夢や希望が光り輝いている逸品《小さな世界》である。

 お茶の仕度をするため台所に下がった私たちの耳に、アトリエで赤ん坊と二人きりになった父の声が響いてきた。

 「人間は生まれてきただけで価値がある。キミのその価値ある人生を健康で幸せに過ごすんだよ」

 ― 生まれてきただけで価値がある―

 私は何回も挫折を味わってきた。死にたいと思った事も一度や二度ではない。しかし誰れの人生にも悲しみ苦しみ困難があり、苦渋の道を歩まなかった者は一人として有り得ない。私たちは好むと好まざるに拘わらず、時には大きな波に飲み込まれることがある。しかしそのことと揺ぎない芯を持って生きていくこととは全く別問題である。

 逆境に立たされた時に、その人間の真価が問われる。負けない勇気を持ち日々戦ってこそ、生まれてきた価値があると言うものだ。一番険難の時どう生きてきたかがその人の値打ちであり誇りである。

 どんなに深い悲しみも、どれほど大きな苦しみも、いつか「思い出」にする力が私たちに必要なのだ。

 鷹山宇一記念美術館で《小さな世界》に会うたび、たった一つ私ができた親孝行のまねごとと、絵描きの娘に生まれた幸せに感謝し父の深い愛情に包まれる。

 子どもが生まれたことでどんな試練を差し引いても私の人生はお釣りのくる人生となった。命より大切な息子に恥ることなく正々の旗を掲げ、堂々の陣を組み文字通り「正々堂々」と誠実な道を歩み、いつの日にか又、父と母に会いたい。

美連協ニュース125号(2015年2月号)より転載(※役職は掲載時)



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