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大震災からよみがえる
佐治ゆかり 郡山市立美術館長
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上:郡山市立美術館
下:郡山市立美術館 展示見学風景

 私が郡山市立美術館で働くようになったのは、東日本大地震・福島第一原発事故から一年経った2012年4月である。

 震災後、美術館では、地震による被害への対応、原発事故による放射能汚染への対処、中止になった事業の事務処理、そして郡山市職員としての被災者支援業務。一年以上経っても、美術館で本来の仕事に満足に向き合える状態ではなかった。日常のあらゆる場面で震災・原発事故の影響が色濃く残るなかで、私の館長としての仕事はスタートした。

 美術館は、施設面での応急措置を経て、震災から4か月後の7月に再開した。多くの建造物が被災し、復興ままならない中で、内実はどうであれ、美術館の再開は異例の早さであったといえよう。この動きを大きく後押したのは、市民、学校関係者の働きかけであった。生活環境が大きく損なわれ、さらには放射線という全く経験のないリスクを抱えて、日常は一種のヒステリック状態であった。一つだけ確かだったのは、もっとも身近であるはずの自然から、私たちは隔離状態に置かれていたということだ。そうしたなかで、美術館というきわめて人工的な場の再開が強く望まれたのは矛盾にも、また当然のことのようにも思える。

 原発事故による放射能汚染の問題は、暑い夏を迎えるにつれ、まさに皮膚感覚で、拭いきれない脅威として私たちにまとわりついていた。こうした状況下で、美術館に行けば、とにかく一時であっても、大人も子供も深呼吸ができる、そんな身体的な切実さがあったように思う。

 2014年8月、生活は落ち着いてきているように見える。子供たちも場所を選べば外で遊べるようになった。しかし、街のあちこちには空き地が広がり、庭の隅にはシートに覆われた除染土が残され、今でも定期的な放射線測定が続けられている。原発事故の影響は、環境はいうまでもなく、人びとの心にも、澱のように蓄積され続け、生活に新たなシステムをもたらした。

 公共施設としての美術館の性格は、時代や地域の事情によって大きく規定されるものであろう。美術館はどのような場所として市民に受け止められていたのか。物理的な安全性は前提だが、精神的な安全と安心が担保されている場所であるという認識があったのではないか。

 まずは萎えた心を解放できる、文字通り「安心」な場所。願わくば、現在起こっている不条理な状況になにがしかの構造を与え、気力と認識力を蘇らせてくれるのではないかという期待が、無意識ながらもあったのではないだろうか。大震災から3年を経て、美術館という時間・空間が、地域にとってどのような存在なのか、改めて考えている。

美連協ニュース124号(2014年11月号)より転載(※役職は掲載時)



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