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美術館に影を落とす「クラウド」
―「もの」とデータ、流れる雲に寄せて
熊田 司 和歌山県立近代美術館長
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「生誕120 年記念 田中恭吉展」の展示風景(会期:2012 年9月1日〜10月14日 和歌山県立近代美術館)

 ITの世界では昨今、「クラウド」ということが喧しい。cloud computingのことで、「雲」はネットワークそのものの比喩表現でもあるそうだが、インターネット上に存在するデータやソフトウェアの、中身が見えないもやもやとした集合体を表す言葉として、まことにうってつけであろう。

 個人や事業所で、厖大なデータを自ら管理し、セットアップやメンテナンスが煩瑣なソフトウェアを抱える必要はない。通信回線を「雲」に差し込んでおけばすべてうまく行くと、まるで夢の技術みたいにCMで謳うのを見て、私などは「本当?」と疑ってしまう。

 最近では「雲」も成長して、巨大な積乱雲がいくつも角逐するかのような怪しい空模様である。残暑の厳しい日射しを遮ってくれると思ったら、激しい雷雨や竜巻に捲き込まれないとも限らない。私どもがホームページのデータ管理を委ねていたあるレンタル・サーバー会社は、こうした巨人ではないものの、準大手として手広く事業展開していたが、6月のある日突然機能停止に陥った。システムの脆弱性回避のために使用した更新プログラムに欠陥があり、顧客から預かったデータの多くを消失したのである。美術館のホームページもご多分に洩れず、アクセス不能となり、公開データだけではなくバックアップデータも雲散霧消したという。幸い、館に残っていた補助データなどで復旧を試みた結果、元の姿に戻りつつあるが完全治癒にはほど遠い。未来に暗雲が立ちこめた実例である。

 ネットが幾何級数的に広がり、かつ重層性を増した今日、世界中の美術館や図書館のデジタル・データベースがつぎつぎと公開され、いつでもどこでも容易にアクセスできるようになったのは本当にありがたい。私なども、あらゆる調べ物が居ながらに出来て、その恩恵を最大限に享受する者の一人をもって任じている。しかし、慈雨をもたらすこの雲も、悪意や人間的過誤、その他もろもろの要因から発する一筋の稲妻によって、はかなくも掻き消されてしまう。DB構築やデータ入力に投入した労力が一瞬にして無になるわけで、本当にがっかりする。

 しかし、データの裏側にあるオリジナルの作品資料が失われるのでないのが救いだ。ひと頃流行った「バーチャル・ミュージアム」の背後にはリアルな美術館が厳として存在する。であるから、雲を育てるのも大事だが、それにも増して、風雨にさらされる高貴な精神が逃げ込める頑強な避難所を維持することの方が、美術館のより根源的な使命なのだと銘記しておきたい。

 私どもでは9月から、「生誕120年記念田中恭吉展」を開催する。23歳で夭折した詩人版画家の、「天才」が刻まれたおびただしい画稿やメモを、散佚から守って後世に伝えたのは親友の恩地孝四郎である。その志を継承する美術館は、作品保管だけではなく展覧会もたびたび開催してきた。結果、この類い稀な才能は世人の脳裏に強烈な残像となって灼きつき、輝く雲のような実体ある作品群の中で、不死鳥のように甦りつづけるのである。

美連協ニュース116号(2012年11月号)より転載(※役職は掲載時)



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