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第35回 「心に残る医療」体験記コンクール 〜あなたの医療体験・介護体験を募集します〜

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第35回入賞作品

<一般の部> 入選

朝焼け

平原 博(ひらはら ひろし)(68)鹿児島

昨年、五月下旬、朝五時。薄暗い病室でナースコールを握りしめていた。入院して三週間。丘陵に建つ病院の窓一杯に繰り広げられる壮大な桜島の朝焼けを、誰かと分かち合いたくなったのだ。

果して、運よく、数人いる夜勤者の中で、私の気持ちを汲み取ってくれる看護師がやって来るだろうか。看護以外のことでナースコールされるのは迷惑だと、けんもほろろに断られるのではないだろうか。かなり躊躇した。

夜が白み、暗闇に溶け込んでいた桜島がゆっくりと墨絵のような黒いシルエットを現しし始めた。右肩の稜線にかかる雲の底が茜色に染まっていく。幾つかの光の筋が現れた。 

「あっ、始まる」。思い切ってボタンを押した。掌は汗ばんでいた。

「お願い、この雄大な自然の営みを分かち合える人がやって来て」。

一秒、二秒、三秒・・。タッタッタッ。廊下の奥から足音が近づいて来た。そっと、ドアが開く。「おはようございます。平原さん。どうかされましたか」。仕切りのカーテン越しに爽やかな声が流れて来た。「よかった。Sさんだ。彼女なら、僕の心情を察してくれるはずだ」。胸の緊張が解けていく。

看護は家庭の家事と同じだ。母親は、美味しい食事をつくり、清潔な衣類を着せることで、子どもへの愛情を表現することができる。看護師は、看護を通して患者の心に触れる機会を得ることができる。病気で心が衰弱した患者は、無意識に、母親に対する幼児のように、看護者との心の交流を求める。

日々の看護の中で、患者の気持ちを察知しながら気働きをする彼女を見て来ていたのだ。

中仕切りのカーテンが開き、フットライトの明かりの中に彼女の姿が浮かび上がった。

「あの、体調不良とかではなくて、きわめて個人的なお願いがあって、つまり、その、これから始まる桜島の朝焼けを一緒に眺めて欲しいと思って、ナースコールしたんです。『ウイーンわが夢の街』という音楽をかけますので、その曲が終わるまで・・、およそ五分位ですけど、よろしいですか」。

一瞬、眉を寄せ、驚いたような顔つきになった彼女。やがて、深くうなずき、微笑みながら窓際の椅子に座った。

弦楽器の静かな音が流れる。重畳起伏する大隅の山々は紅から黄金色に変わり、煌めく後光の中に桜島が姿を現しかけていた。

「うわ〜、きれい」。彼女は、胸の前で両手を祈るように合わせた。

あれは、昨年の四月上旬のことだった。長く続く不可解な空咳のため、近くの病院で受診した。すると、なんと、食道に十三・五センチの癌が発見されたのだ。

まさに青天の霹靂。「がん」という二文字が、カラカラと空虚な音を立てて頭の中を回った。日常の全ての出来事が色を失い、意味をもたずに通り過ぎて行った。過去の自堕落な生活を恨んだ。行き先の見えない未来に絶望した。入院後、すぐにゴールデンウイークが到来。病院の機能が停止し、一向に進まない検査と治療に、砂時計のようなちりちりとした苛立ちが積もった。

そんな暗澹たる胸中を余所に、毎朝、窓一杯に繰り広げられる荘厳な自然の営み。誰かと分かち合いたくなったのだ。

音楽が終わった。椅子から立ち上がった彼女。「有難うございました。短い時間でしたが素敵な朝焼けを見られて、心が洗われました。お陰さまで、朝まで頑張ることができそうです」、と微笑んだ。「ところで、平原さん。入院して三週間が経ちましたね。生憎、大型の連休と重なって、検査などが進まずイライラされていらっしゃるのではないかと思います」。真剣な眼差しだ。

「制約のない自由な時間が多くなって、来し方や行く末を考え、複雑な気持ちにもなっているんじゃないかと思います。平原さん。私、時々、入院生活で大事なことは何だろうと考えることがあるんです。多分、それは、いつまでも過去や未来に囚われるのではなくて、今ここでの一瞬、一瞬に焦点を当てて、今をしっかり生きて行くこと。演奏家が、特別な舞台に臨むときに、自分を鼓舞し、強く気持ちを入れ込むように、毎日を人生のクライマックスと考えて、敢えて晴れがましく生きて行く。検査や治療が辛く、きつくとも、その一つ一つに勇気を持って晴れがましく立ち向かい、精一杯生きて行くことではないかと思うんです」。

どこか遠くから、ナースコールが聞こえてきた。ぺこりと頭を下げた彼女。明るくなった病室を風のように去って行った。

桜島は、目映いばかりの黄金色に包まれ、どっかりと錦江湾に鎮座していた。

「もう、過去や未来への執着はよそう。彼女が言うように、一日一日を精一杯生きてみよう。そして、強敵、がんと闘うのだ」。

心の中にマグマのような決意が湧いて来た。


(敬称略・学年などは2017年2月18日時点)

  • (注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。


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  • 主催
  • 日本医師会
  • 読売新聞社
  • 後援
  •  厚生労働省
  • 協賛
  • 東京海上日動 東京海上日動あんしん生命

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