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第33回 「心に残る医療」体験記コンクール 〜あなたの医療体験・介護体験を募集します〜

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第33回入賞作品

<一般の部> 読売新聞社賞

おいちゃん先生

伊藤千晶(いとう ちあき)(69)神奈川県

叔父は島の医者だった。甥、姪はもちろん島中の人々からおいちゃんと呼ばれていた。

年上や同級生からは、寿坊と言われた。

(60代になっても、70代になっても)

A先生と呼ぶ人など皆無に等しい。

「頭が痛いんじゃけんど、診てくれーの」

「わー痩せちょるけんど元気じゃのー」

「おまえはそげー酒ばっかり飲んじょたら今に死んでしまうぞ」とおいちゃんは言う。

こういうやりとりで、お互い敬語を使ったりはしない。どっちが医者だか患者だかわからない。えてして田舎だとこういうものなのかもしれない。

叔父は母の弟で体重50キロ、身長160センチほどの吹けば飛ぶような小さい体だ。

「俺は子供の頃から胃腸が弱く、そのため胃酸の量の関係で30代から総入れ歯だった」と自慢げによく話していた。

あまり大威張りで話すようなことではないと思うし、信じられないようなことだが、医者本人が言っているのだから間違いないかも知れない?

O県T市H島という地図にも載っていない、周囲4キロほどの小さな離島に、昭和31年より半世紀以上にわたり、医者としてこの島に生涯を捧げた。

この島は、マグロ漁業で栄えた。昭和52年頃が一番の豊漁で、戸数656戸、人口3044名、超過密な豊後水道に浮かぶ離島だ。土地が狭いため、10坪ほどの土地に3階建てのビルがあっちにも、こっちにも。島のてっぺんまでノッポの家が建ち並んでいる。

だが平成26年の現代、マグロの漁獲量が激減し、高齢者だけの過疎の島になってしまった。

おいちゃんの専門は、内科と婦人科。

だけど眼科、耳鼻科、外科(歯医者以外)と何でもやる。

漁師たちは気が荒くて喧嘩早く、怪我をした人たちがたびたび、運びこまれてくる。

この時は外科医に。

耳に虫が入った、中耳炎になった。この時は耳鼻科に。

目いぼが出来たり、トラコーマの時は眼科に。

急患が出ると朝早くだろうが、夜中だろうが叩き起こされる。島の医者には時間など関係ない。

叔父はいろんな趣味を持っていた。中でも魚釣りとカメラは別格だった。写真は現像までやり、私が助手だった。地下室の井戸のそばで金属のバットと大きな金だらいで行い、絵が出て来る時のワクワク感は、今でも残っている。その後には、お楽しみがあってアイスクリームを必ず作ってくれた。

伝馬船に乗って魚釣りにもでかけた。櫓のこぎ方を伝授され、魚の居そうな場所までギーコ、ギーコと必死で漕いだ。

私はこの櫓を漕ぐのが得意で、一番の自慢だった。

叔父は手先が器用で擬似餌 作りの名人で漁師の人たちがコツを習いにやって来た。

ある午後の患者の居ない時2人で釣りに出かけた。釣り糸を垂らし、さあこれからと言う時港の方で赤い旗を大きく振っている。

(赤い旗の大振りは、急患の知らせ)大急ぎで船を回して帰って来た。

海に潜って遊んでいた男の子が、海面に上がってこなかった。医院に来た時は、心肺停止に近い状態。おいちゃんは白衣に着替える暇なく、必死の治療が始まった。

お母さんがター君と呼びながら、息急き切ってやってきた。家族もやってきた。

まんじりともしない静まりかえった病室には、カチカチと時計の音だけが聞こえる。

やがて、空が白々と明けてきた。

右手がピクリと動いた。誰からともなく拍手がわき、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、それぞれの頬には涙が。

おいちゃんは声にならない大きなため息をフウーとついた。

私は思わず叔父の顔を見て、すごーいやるじゃん、かっこいーと心の中で叫んだ。

5〜6キロもある重い診療鞄を肩に掛けて往診に行くので、肩はへっこんでいた。それでも、だんだんの多い狭い道を飛ぶように歩く。階段は2段ずつ飛び越えて歩く。若い看護婦さんでも付いて行くのが大変で、フウフウ言いながら、後をくっ付いて行く。

そんな元気いっぱいのおいちゃんも寄る年波に勝てず、80歳になったのを機に、医院の看板を下ろした。

祖父の代から続いた立派な檜の一枚板には少々薄くなってはいるが、「A医院」という文字が光り輝いていた。


(敬称略・学年などは2015年3月7日時点)

  • (注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。


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  • 主催
  • 日本医師会
  • 読売新聞社
  • 後援
  •  厚生労働省
  • 協賛
  • 東京海上日動 東京海上日動あんしん生命

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