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第30回 「心に残る医療」体験記コンクール 〜あなたの医療体験・介護体験を募集します〜

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第29回入賞作品

<一般の部> 日本医師会賞

今日より明日

村野京子(むらの きょうこ)(52歳)山口県防府市・会社員

長く細い指から、煙草(たばこ)が消えた。
吸いたくても手が動かない、歩きたくても動けない。彼は重度の脳梗塞だった。

働きながら、一人で介護をする私は、気持ちが折れそうになる。失語症の彼に対して、苛立ちが募り、鋭い言葉を投げる。返ってこない返事。彼も言いたいことが山ほどあるだろう。いたわりのない自分が情けなかった。

でも私には、柳のように、あるがまま受け流す余裕もなかった。ポキンと音をたてて、二人の心が泣いていた。

それでも、朝はやってきた。週末は散歩がてら、スーパーに行く。賑やかな店内、ざわざわと人の波。車イスを押しながら回る。

目の不自由な彼は、陳列棚がほとんど見えていない。思い浮かんだ物を次から次へと子供のように欲しがる。「今度ねだったら、もう、一緒に買い物に連れていかんよ」。遠い昔、亡き母に叱られた言葉を、同じように彼に掛けている。うふっと思い出し笑い。

買い物袋はいつもお菓子でいっぱいになった。ビールが牛乳に代わり、おつまみは飴やチョコに変身した。

家に帰ると、車イスからソファーに移す。

「いい、私に、ぎゅっと抱きついてよ!」

彼の両腕を私の首にまわす。

「せえのお〜よっこらしょ」。身長155pの私は、175pの壁のような彼を一瞬立たせ、そのまま二人でソファーに倒れ込む。力いっぱいしがみついた彼の腕力に、身動きできない。もがきながら、彼の痩(や)せた胸に、顔を埋める。ふっと感じたミルクの匂い。

「あれ、邦ちゃん、赤ちゃんの匂いがするよ」

満面の笑みを浮かべた彼は「うお〜、ぎゅうにゅう」と、たどたどしく、一生懸命に声を発した。体に染みついていた、煙草の匂いは、幼子の香りに変わっていた。

無邪気に笑う彼に、つい頬(ほお)ずり。私、苦笑い。彼、照れ笑い。そんな小さな笑顔にはっとする。毎日、こんなに楽しく介護が出来たらどんなにいいだろう。

泣いて、怒鳴(どな)って疲れて、辛いことは、いっぱいある。ゆっくり食事をしてお風呂に入る、そんな贅沢(ぜいたく)が、1日でも欲しかった。

その気はないのに、腹立ち紛れに、離婚という伝家の宝刀を抜いたこともある。

「殺して」っていう彼に「私を殺人者にするつもり?」と声を荒げたこともある。戦争のような毎日を投げ出したかった。

その頃からだった。胸が締めつけられ、手足が痺(しび)れるようになったのは。総合病院で検査を受けた。異常なし。そこで心療内科への地図を渡された。その地図を握りしめ、紹介された病院の戸を叩いた。

小柄で物静かな先生は、1時間以上私の話を聞いてくれた。私は、彼の頻繁のトイレ。夜中に何度も起こされること。出勤間際に排便して、制服が汚物で汚れ、自分の感情が抑えきれなくなって、主人の太ももを平手で叩いたこと。そしてその場でわんわん泣いたこと。残業の出来ない私は、部署を変更させられたこと。それが悔しかったこと。しゃくりあげながら、心の内をぶちまけた。

適応障害と診断されたが、先生は、「あなたなら、絶対大丈夫。愚痴を聞いてくれる友達が多いのは、あなたの人柄ですよ。周りの方があなたを見守っておられるのが、よく分かります。私にもまた、愚痴を聞かせてください。手抜きをする方法もみんなで考えましょう」。病院を出たときは薄暗くなっていた。

「『適応障害』って言われちゃった」と十数人にメールした。とたんに、返事が追いつかないほどメールが来た。数人は会う日時を聞いてきた。一人は「あんたは絶対鬱(うつ)にはならないよ」と返事をくれた。嬉(うれ)しかった。

以前から、ケアマネが特養ホームを捜してくれていたが、重度障害の上、インスリンや透析で、なかなか受け入れ場所がなかったのだ。赤ん坊以上に手のかかる彼を、仕事を続けながら一人で背負うのは、重すぎる。私の身を案じての話だったが、胸に痛みが走った。

「共倒れになる前に、今後のことも視野に入れて、考える時期かもしれませんよ。でもね、奥さんの気持ちを最優先したい。そのためには、私たちは力を惜しまないから」と、ケアマネは言葉の最後に、力を込めた。優しい言葉を掛けられると、張りつめた気持ちが、頷(うなず)くように涙をこぼす。『やっぱり離れられない。最後まで一緒にいたい』。揺れる心がそう叫んだ。辛いことばかりではなかった。楽しいことは同じくらいあったはず。思いつめて、忘れていただけ。先生も、友達も、みんな私たち二人のことを心配してくれる。職場変更も、上司の私への配慮だったのだ。もうしばらく、支えてもらってもいいかな、そして、ほんの数グラム、頑張ってみようかな。

今日より明日と言いつつ、結婚32年目を迎えた。何度も抜いた宝刀は、今では効き目がなくなってしまったが……。


(敬称略・学年などは2011年1月現在)

  • (注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。


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  • 主催
  • 日本医師会
  • 読売新聞社
  • 後援
  •  厚生労働省
  • 協賛
  • 東京海上日動 東京海上日動あんしん生命

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